波が水になろうと努力して、疲れ果てている
波が水になろうと努力して疲れ果てているというのは、多くの人の人生の例えなんですけど、掘り下げてお話ししてみようと思います。
『自分は波なんですけど、どうやったら水になれますかね?』
もしこういう質問を受けたら、何て答えます? 「いやいや、あんた、水じゃん!」って思いますよね(笑) でも、波はその姿形に捉われてますので、自分の本質が水だと気付いてないんです。
波が水を探し求める必要がないのは、波自身が水だからです。
あなたが幸せを探し求める必要がないのは、あなた自身が幸せだからです。
あなたが神を探し求める必要がないのは、あなた自身が神だからです。
あなたが悟りを探し求める必要がないのは、あなた自身が悟りだからです。
なぜ人は、幸せや神や悟りを探し求めてしまうのか?と言いますと、マインド(思考)が観念・概念に基づいてあれこれジャッジします。今の自分はそうじゃないと。だから求めます。目標を立て、ゴールに向かって進んでいく(気がしてるだけ)。
これやり出すと、永遠にゴールのないマラソンを走らされます。そして疲れ果てます。
ゴールを設定した瞬間から、マインドは不安や心配、恐れ、嫉妬など、次々と出してきます。
本当の自分は、はじめから幸せであり、神であり、悟りそのものなんですね。ただ、そうではないとマインドが決めつけ、それを追い求めようとするんですけど、実は離れていってるんですね。だって、本当は今がそれそのものなのに、探し求めていったら、今という点から離れていくだけですよね。
波は、あっちの波の方が大きいとか、あの波の方が形が綺麗だとかで比較して、優越感や劣等感を抱きます。でも、波の形態を見れば色々あるように見えますが、その本質はすべて1つの海(水)なんです。波であり、同時に海(水)でもあるんですね。
人も、形態という一側面だけに捉われてしまい、本質を見失ってるです。
じゃあ、なぜ本質が分からなくなっているのか? マインド(思考)が気付かせないようにしているだけです。
以前の記事で、人生には2つの池があると書きました。
魚のいない池=マインドに使われる人生
魚入れ食い状態の池=マインドを使う人生
マインドを自分だと錯覚して、思考することが当然であるかの如く、四六時中、思考を暴走させる。マインドに使われています。
マインドの別名って知ってます? 『天才的なトラブルメーカー』という異名を持ってます。なので、マインドに依存している人が、悩み・苦しみがある人生を送るのは、ある意味、仕方ないことなんですね。トラブル大好きっ子のマインドを自分だと思って大切にしてますので。
悩み・苦しみのない人生を歩んでいる人は、マインドは必要に応じて使いますが、基本的には静寂を保ってます。
あなたは本当は、悩み・苦しみのない幸せそのものなんですけど、マインドを大切にするばかりに、マインドは私は幸せではない!と思考します。次の瞬間、幸せになりたい!と思考します。そして、幸せになれそうな何かを探し始めます。で、周りと比較します。上手く出来ないとダメだなどと自分を卑下し始めます。すべてマインドの自作自演の一人芝居。
波が水になろうと努力するわけです。そして疲れ果てる。
マインドが邪魔しなければ、本質は今この瞬間にありますので、姿を現すことは可能なんですね。ただ、人によっては、思い込み・決め付けという固定観念が強烈に焼き付いてて、考えないということが普通になるまで、少し時間がかかることがあるんです。
何年もキッチンの換気扇を掃除してないと、ちょっとやそっとでは取れないくらい油がこびり付いてますよね。これと似た感じです。
多少の時間差はありますが、誰でも必ず出来るようになります。この時間を短縮させる手段として瞑想やヨーガ、内観というものがあるということです。
ただ、思考をしないというのは、ジャッジをしないとも言いますが、行動をするなとは一言も言ってませんので、普段の生活は今まで通りやっていくんですよ。その中で、恐らく思考・ジャッジが暴走してたと思うので、それを中断させるということです。
目の前のことをしっかりとやっていけばいいだけです、ノーマインドで。
波が「自分は水だった」と受け入れれた時、比較や競争などはなくなり、平穏で至福に満ちた世界がおとずれることになります。
最後までお読み頂いて、感謝しています☆彡